終点ひとつ前の図書館

町のはずれを走る古い路面電車には、少し変わった噂があった。

雨の日の夕方、終点のひとつ前の駅で降りると、不思議な図書館へ行けるというのである。

もちろん誰も本気にはしていなかった。

「また誰かの作り話だろ」

パン屋の主人は笑ったし、クリーニング屋のおばさんは「でも、ちょっと素敵ねえ」と言った。

高校二年の秋山透も、その噂を半分くらいしか信じていなかった。

ただ、その日は少しだけ気分が違った。

数学のテストが返ってきたのである。

三十二点。

見事だった。

透はため息をつきながら、雨の中を路面電車へ乗り込んだ。

車内には客が三人しかいない。

新聞を読む老人と、眠っている会社員と、大きな袋を抱えたおばあさん。

ガタン、ゴトン。

電車はゆっくり進む。

窓ガラスには雨粒が流れ、町の灯りがぼやけて見えた。

透はぼんやり外を眺める。

そのとき、車内アナウンスが流れた。

「次は、しおさい町。しおさい町です」

終点ひとつ前の駅だった。

透はなんとなく立ち上がった。

別に理由はない。

強いて言えば、数学三十二点のせいだった。

ホームへ降りる。

小さな無人駅だった。

雨音しか聞こえない。

駅前には細い坂道が一本続いている。

透は傘を差し、その坂を上ってみた。

すると、五分ほど歩いたところで、小さな建物が見えてきた。

木造二階建て。

入口の上には、古い看板がかかっている。

『星波図書館』

透は立ち止まった。

「ほんとにあった……」

建物の窓から、暖かな灯りが漏れている。

なんとなく気になって、中へ入った。

カラン。

ドアベルが鳴る。

中は驚くほど広かった。

天井まで届く本棚。

柔らかなオレンジ色の照明。

紙の匂い。

そして、カウンターには猫がいた。

白黒の丸い猫である。

透は目をぱちぱちさせた。

猫はゆっくり顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

透は固まった。

「しゃべった」

「図書館ですので、静かにお願いします」

猫は落ち着いた声で言った。

透はとりあえず頷いた。

「あの……猫?」

「司書です」

「いや、そうじゃなくて」

「細かいことを気にすると、本は楽しめません」

猫は前足で眼鏡を押し上げた。

透は混乱した。

だが、図書館の空気が妙に落ち着くのである。

窓際ではおじいさんが文庫本を読んでいた。

奥の席では小さな女の子が絵本をめくっている。

誰も猫が喋ることを気にしていない。

「初めての方ですね」

猫が言った。

「はあ」

「おすすめをお探しですか?」

「えっと……」

透は少し考えた。

「人生がうまくいく本とかあります?」

猫はしばらく黙った。

「難しいですね」

「ないですか」

「だいたい皆さん、途中で寝ます」

「そうですか」

「代わりに、少し元気になる本ならあります」

猫は棚から一冊の本をくわえて持ってきた。

タイトルは『失敗の作法』。

妙な題名だった。

透は席へ座り、ページを開く。

内容は変だった。

失敗した人たちの話ばかり載っている。

料理を焦がした話。

電車を乗り間違えた話。

好きな子の前で転んだ話。

だが読んでいるうちに、透は少し笑っていた。

「どうです?」

いつのまにか猫が隣へ来ていた。

「変な本です」

「人気なんですよ」

「なんで?」

「みんな、自分だけ失敗してると思ってますから」

透は少し黙った。

外では雨が強くなっていた。

時計を見ると、もう一時間も経っている。

「そろそろ帰ります」

透が立ち上がると、猫が言った。

「返却は不要です」

「え?」

「ここの本は、読んだ人のところへ残りませんので」

意味がよくわからなかった。

だが透は本を持って外へ出た。

雨は小降りになっていた。

家へ帰り、自室の机に本を置く。

それから風呂に入り、夕飯を食べ、寝る前にもう一度読もうと思った。

だが机の上に、本はなかった。

「あれ?」

部屋を探す。

鞄の中も探す。

どこにもない。

翌日、透は学校帰りにまた図書館へ行った。

しかし、駅前に坂道はなかった。

古い駐車場があるだけである。

透は首をかしげた。

「あれえ……?」

次の日も、その次の日も探した。

だが図書館は見つからない。

そのうち透は、「まあ夢みたいなもんか」と思うようになった。

ところが、それから不思議なことが起き始めた。

学校でテストを間違えても、前ほど落ち込まなくなったのである。

コンビニで弁当を落としても、「まあ、そんな日もあるか」と思える。

友達と喧嘩しても、少し待ってから話せるようになった。

ある日、母親が言った。

「最近、あんた少し変わった?」

「そう?」

「前より、顔がのんびりしてる」

透は笑った。

「たぶん、猫のせい」

「何それ」

冬になった。

ある雪の日、透はまた路面電車へ乗っていた。

窓の外は白い。

ぼんやり景色を見ていると、車内アナウンスが流れた。

「次は、しおさい町。しおさい町です」

透は少し笑った。

そして、なんとなく降りてみた。

駅前には、やはり坂道があった。

透は急いで坂を上る。

すると、あの図書館がちゃんと建っていた。

窓から暖かな灯りが漏れている。

透はドアを開けた。

カラン。

猫が顔を上げる。

「お久しぶりです」

「また来れた」

「利用条件を満たしたようですね」

「条件?」

猫はゆっくり尻尾を揺らした。

「失敗しても、自分を嫌いになりすぎないことです」

透は少し考えた。

「それが条件?」

「はい」

「変な図書館」

「よく言われます」

透は笑った。

そのとき、店の奥で小さな機械音が鳴った。

ピコン。

猫は壁の時計を見上げる。

「おや、閉館時間ですね」

「早くない?」

「今日は銀河会議がありまして」

透は聞き流しかけたが、途中で止まった。

「銀河?」

「はい」

猫は当然のように頷いた。

「この図書館、正式名称は『銀河辺境文明感情保存書庫・地球支部』ですので」

透は固まった。

「え?」

「絶滅寸前文明の感情記録を保存しています」

「え?」

「最近は“懐かしい”という感情が銀河で人気なんですよ」

「え?」

猫は本棚を見回した。

「地球人は、よく泣いて、よく笑って、よく落ち込みますから。資料価値が高いんです」

透は口を開けたまま動かなかった。

「ちなみに私は第三司書型自律知識管理端末です」

「猫じゃないの!?」

「見た目は人気投票で決まりました」

透は頭を抱えた。

猫は穏やかに続ける。

「安心してください。地球はまだあります」

「そこじゃない」

「ただ、銀河全体から見ると、かなり貴重です」

透はため息をついた。

だが不思議と、嫌な気分ではなかった。

猫司書はカウンターへ戻りながら言った。

「本を読むとき、人は少しだけ他人に優しくなれます」

「そうかな」

「ええ。だから銀河でも図書館は必要なんです」

窓の外では雪が降っていた。

静かな白い夜だった。

透は本棚を眺める。

そこにはきっと、誰かの失敗や、誰かの後悔や、誰かの小さな幸せが、ぎっしり詰まっているのだろう。

「じゃあ、今日は何を借りようかな」

猫は満足そうに頷いた。

「良い夜になりますよ」

時計の針が静かに進む。

地球でも、銀河でも、同じ速さで。